++ What cats feel   7 ++






   * * *
 
 読み返していた古い手紙を、ロイは丁寧に折り畳んで封筒の中に戻した。
 荷造りのため、部屋の中を引っかき回している最中、ひきだしの下に落ちているのを見つけた手紙に差出人の名前はない。宛名もまた、書かれてはいない。
 階下で電話がけたたましく鳴り、ハンナが大きな声でロイを呼んだ。言われなくても相手は分かった。思い浮かべるだけでロイの気分を昂揚させる、その名前を彼は大切そうに口にした。
「こんにちは、エリシア」と。
「荷造りははかどっているかしら、ロイ?」
 すでに中年と呼ばれる年代に差し掛かっている彼女だが、明るく張りのある声はみずみずしい若葉を思わせた。ちょうど彼女の瞳ような、明るい緑色の。
「少し休憩していたところだよ。懐かしいものを見つけたんだ」
「あら、そんなことで大丈夫? 出発は明日なのよ」
 呆れ顔が目に見えるような言い様に、
「平気さ、少しくらい。こういうことはダラダラやるより、短期集中した方が効率も上がるしね」
 ロイは笑いながらこころにもない言葉を並べたて、子供のように舌を出した。彼の周囲の床は壁に突き当たるまで物で埋めつくされている。
 だが、受話器を握る女性には、何百マイルも離れているにも関わらず、自分の赤い舌が見えているに違いない、とロイは思う。そして、微かに聞こえた忍び笑いがそれを裏づけるのだった。
「一体、なにを見つけたのかしらね?」
「それは明日までの秘密」
 産まれ育ったこの家を、彼の世界の大半だったこの場所を、ロイは明日の朝出ていく。胸いっぱいの想い出と、わずかばかりの感傷と、それから大いなる希望を抱いて。そして、エリシアのいるセントラルシティで四年間を過ごすのだ。国内随一のエリート校、中央士官学校の学生として。
 そこは、エリシアの父・マース=ヒューズの母校でもあった。
「……本当に、明日にはこちらへ来るのね」
 そうだよ、なにをいまさら、と笑うロイに、感慨深げな声が返される。
「あの小さかったロイが、士官学校に入る歳になったなんて、未だに信じられないわ」
「もうとっくにエリシアの背を抜いたじゃないか」
 自分をいつまでも子供扱いするエリシアに、ロイは不満を訴えた。もっともこれは、今に始まったやりとりではなく、顔を合わせるたび、電話で話すたびに何度も繰り返されている。一種の儀式と呼んでもよい。
「そうね、分かってはいるのよ。でも、あたしにはいまでも、小さくてかわいいロイなの」
 初めて聞いた言葉でもないのに、ロイはつい肩を竦めてしまう。埋まらない、母子ほどの年齢差。一つ季節が過ぎ、一つ歳を取って大人に近づいても、エリシアもまた同じだけ先へと進んでしまう。こればっかりは、どうにもならない。
「それが嫌なら、せいぜいいい男になることね、ロイ」
 からかう声に、ロイは目を瞬いた。
「あたしのロイ。賢い、きれいな、大切なロイ。あなたが明日来るというんで、大変なのよ。お掃除をしたり、布団を風に当てたり、ご馳走をつくるの大わらわ。期待してて」
 ロイはセントラルシティに着いた後、直接寮に向かうのではなく、三日ほどをエリシアの家で過ごすことになっている。士官学生の生活には制約が多く、二人でゆったりと時間を過ごす機会は、これを逃せば当分先まで望めない。
「あたしも、期待して待っているのよ?」
 じゃあね、がんばって、と電話は切られ、後には不思議な余韻が残された。

 古い手紙を手にしたまま、ロイの気持ちは子供の頃──いまよりももっと明確に子供だった頃を遡っている。
 ──エリシアが母さんになってしまったら、僕が大人になったとき、エリシアをお嫁さんにできなくなってしまうじゃないか。
 まさか、あの、桜の樹の下での告白を真に受けているからではないだろうが、エリシア=ヒューズは未だに独身を保っている。
 あの晩、求婚をきっぱりと断られた父は一見、それほど落ち込んだ様子を見せなかった。そして、自分のことは気にせず息子のために、これからも気兼ねなくこの家に来て欲しい、と彼女に願った。
 あれは女子供を前にした父の、大人の男として精一杯の痩せ我慢なのだと、幼いなりにもロイには分かった。
 女中のハンナはというと、休暇のたびに屋敷へと遊びに来ながら、一向に主人と結ばれる気配のないエリシアに内心安堵しているようだ。
「ヒューズ嬢は、そりゃあいい人物ですけどね。旦那様が奥様にされるには、いささか現代風過ぎますよ」と。
 物事は収まるべきところに無事収まり、自分は幸福な子供時代を送ることができた、とロイは思う。

 古い手紙に、ロイはもう一度視線を落とす。行き場のなかったほかの手紙は、告白の次の朝、エリシアの出発を見送った後で燃やしてしまった。だから、まさか残っているなんて、思ってもみなかった。それなのに。
 幼い恋は、しかし、まだ終わってはいない。
 明日、セントラルに着いたら一番に、エリシアへこの手紙を渡そうと思う。いまも変わらない想いとともに。
 ──あたしも、期待して待っているのよ。
 ただその一言に、輝かしい未来が待ち受けていると、確信してしまえる自分にロイは笑った。
 だが、その将来への一歩としてやるべきことが、文字通り山積みになって残っている。自分をぐるりと取り囲む荷物の城壁に視線を投げかけると、ロイのくちびるからは大きなためいきがこぼれでた。
 ロイはしなやかに伸びをし、それから、まずはまだ手の中にあった手紙に封をし直して、旅行鞄の中へ入れることから始めた。

 少年の黒い瞳はすでに明日の、あるいはもっとずっと先の光景を映し出しており、そこには長い金髪を揺らした女性の姿があって、彼に向かって微笑みかけている。










                                                                                                                        






                               


 

 

                                                                                                 

                                                          

                          




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